西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、高瀬舟の運行を可能にしたのが高瀬通しです。完成した年代のことは、正確な記録がありませんが、寛文4 (1664)年頃であろうとされます。一の口水門とその下流約350mの二の水門、通称船溜水門との間で水位の調整を行い、高梁川流路との高瀬舟の出入りを容易にしたものです。
一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なるもので、これによって短い時間と距離で松山藩の外港・玉島港への舟運が開かれました。水門の構造は一の口と二の水門の一部で創設時の状態をとどめています。
以上のように、一の口水門はその遺構が良好に残されており、17世紀の後半から20世紀の初めまでの長期間にわたって続いた高瀬舟による物資輸送のことを今に伝える重要な遺跡です。