寛政元(1789)年、児島郡味野村(倉敷市児島味野)に生まれる。文化4(1807)年18歳の頃に、足袋の製造・販売を手がけ、数年後には工場制手工業主に発展するが、文政9(1826)年頃に行き詰まり、塩田開発へ視点を変える。文政10(1827)年に許可を得て以降、野崎浜(味野・赤崎)を始め亀浜塩田・東野崎浜(共に玉野市)を開き、塩・石炭問屋営業の許可・免許に基づく塩業経営を行う。これら一連の塩田開発の成功により、弘化4(1847)年に苗字帯刀を許される。
また、既に始まっていたが不調だった福田新田(倉敷市)の開発を嘉永2(1849)年から携わり、年限通りの嘉永4(1851)年に完成させ、久々井村・北浦村(共に岡山市)・胸上村(玉野市)の新田・塩田開発も成功させた。武左衛門一代で広大な塩田や新田が開発されており、塩田王・干拓王の名声が今日まで響き渡っている。塩田の経営方法の特徴として、「当作歩方制」いう野﨑家独自の制度をあみ出す。
塩田経営が軌道に乗った天保末頃(1840年代)から、茶道・華道・絵画・和歌などの風流に親しむようになる。元治元(1864)年没。