明治42(1909)年、都窪郡倉敷町(倉敷市)に大原孫三郎の子として生まれる。昭和7(1932)年、倉敷絹織株式会社(クラレ)に入社。昭和11(1936)年から昭和13(1938)年にかけてヨーロッパ各国を視察し、繊維工業の実情や文化活動への見聞をひろめる。このとき訪れたドイツ・ローテンブルクの中世建造物群に強い感銘を受け、帰国後に中学・高等学校時代の同窓でもある浦辺鎮太郎(営繕技師。後に建築家)に町づくりの思いを語る。戦後、總一郎のこの思いが浦辺の精神的支柱に据えられ、倉敷の町づくり・町並み保存が展開されている。
昭和14(1939)年、29歳で社長に就任し、2年後には倉敷紡績の社長も兼務する。戦後間もなく、両方とも辞任したが、昭和23(1948)年に、倉敷絹織社長に復帰するとビニロン(合成繊維)工業化を成功させ、中国向けビニロンプラント輸出契約締結によって日中経済交流に貢献した。
その後、諸企業の役員や経済団体だけでなく国の文化関係審議会・協議会等の委員を歴任する一方、倉敷中央病院や大原美術館の理事長を務めるなど、父・孫三郎に続き郷土の発展にも大きく献身した。ユネスコの世界平和の理念を追い求めるとともに、身近な相互理解や連帯意識の必要性を感じ、高梁川流域連盟を提唱。進歩的経済人、国際文化人として社会事業や経済、文化の発展に貢献し、昭和43(1968)年、倉敷市名誉市民となる。