大正12(1923)年、浅口郡河内町西阿知(倉敷市西阿知町)に生まれる。8歳のころに平井長之丞二段(アマチュア)の指導を受け、小学校卒業と同時に大阪に出て同郷の木見金次郎九段の内弟子になる。15歳で初段、20歳で六段、昭和22(1947)年に七段に昇段。塚田正夫名人・木村義雄名人に挑戦し敗れたものの、昭和25(1950)年に木村名人との対局に勝利して名人位を奪取、悲願の「名人位箱根越え」を果たした。昭和29(1954)年には出場全棋戦(名人・王将・王座・全八段戦・勝抜戦・NHK杯・早指し王位)を制覇する。続いて5期連続名人位を保持し、15世永世名人の資格を得た。
昭和32(1957)年に升田幸三に敗れて無冠になるが間もなく王将位を奪還し、2年後には初の四冠王(名人・王将・九段・王位)、昭和37(1962)年に棋聖戦が誕生すると五冠王になった。この頃、タイトル戦に敗れると次年度には必ず挑戦者として戻ってきており、昭和42(1967)年第10期棋聖戦までの10年間全タイトル戦登場という偉業を果し、名実ともに「将棋界の大山」の地位を確固たるものにする。中原誠(第16代永世名人)により終止符が打たれたが、晩年は病とも闘いながら、A級在位のまま平成4(1992)年逝去。
東京、大阪両将棋会館の建設に尽力するなど、棋界の発展、社会文化の興隆に貢献した。昭和45(1970)年、倉敷市名誉市民となる。