備中都宇郡早島周辺は、岡山城を本拠にした宇喜多秀家の領地でしたが、秀家は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に属して滅亡しました。代わってこの領地を戸川逵安みちやすらが領有しました。 逵安は宇続きを読む
真備町の中心部を西から東に流れる小田川に向かって突出する標高43mの丘陵上に、黒宮大塚は所在しています。昭和52(1977)年に、倉敷考古館によって発掘調査が行われました。 墳頂部のやや北西よりで続きを読む
下津井は、児島半島南端の古い港町です。江戸時代を通じて商港・漁港として、また金毘羅往来の発着港として栄えました。その町並みにはいくつもの井戸が点在し、なかには複数の家で使用する共同井戸も見られます。続きを読む
備讃瀬戸の海を臨む下津井は、古来、瀬戸内の軍事、海運の要衝でした。この地の政治的重要性から、地元の人達が城山と呼ぶ標高89mの丘陵には、16世紀に既に宇喜多氏の城砦が築かれていたとされています。 続きを読む
倉敷市域北東の岡山市と境を接するあたりに広がる王墓山丘陵の北端、楯築神社の境内を中心とする弥生時代後期の墳丘墓です。 自然地形を利用し盛り土を行って整えられた墳丘の規模は、現在知られている弥生時代続きを読む
この層塔の跡は、安養寺本堂の西、一段高くなったところに存在します。 現在は建物の基礎になった石(礎石)が15個、中心の柱を支える心礎が1つ残されています。塔跡は3間×3間で礎石は本来16個あったは続きを読む
倉敷市街地の、南東の山裾に位置する縄文時代の貝塚です。 ここに人々が暮らしはじめ、貝塚の形成がはじまったのは縄文時代の前期です。その後も人々は縄文時代中期・後期にかけてこの地に住み、貝塚も引き続き続きを読む
縄文時代には、現在の倉敷市街地のほとんどは海でした。当時の人々は海岸に程近い山裾に住み、狩猟、漁労、採集により日々の糧を得て生活していました。 住まいの近くには貝殻や動物の骨といった食べかすや、土続きを読む
標高239mの本丸跡が南端にあり、北に向かって二の丸、三の丸、井戸、大手門、四の丸、馬場、五の丸、六の丸、大夫丸、寺丸と下って平林口に至ります。 築城年代は庄家長が元久2(1205)年、源平合戦の続きを読む
遺跡は、石を積み上げて築かれた低い基壇上にある7基の塚状の石積みと、その南東に離れて単独に存在する1基の塚状の石積みから構成されています。これらの石積みの中央には石室が設けられていて、そのうち4基に続きを読む