瀬戸内海のなかほどに位置する大飛島にある、沖に向かって突き出したような形の細長い砂浜で、学術的にはこれを砂嘴さしといいますが、地元では「砂州」と言い習わされています。 この砂嘴は、大飛島の東北端、続きを読む
享和2(1802)年(諸説あり)、阿賀郡実村(新見市千屋実)に太田政蔵の長男として生まれる。太田家は、代々鉄山業を経営しており、当時、十指に余る鉄山を有し、近隣に並ぶ者なき有力者であった。天保2(18続きを読む
宝暦8(1758)年、浅口郡西阿智村(倉敷市西阿知町)に生まれる。名は、茂延。通称一郎といい、松隠はその号。家系は代々新見藩に仕えていたが、父の代には仕籍を離れる。幼少時に母の訓陶を受け学問の才を現続きを読む
備中松山藩士。文化2(1805)年、阿賀郡西方村(高梁市中井町西方)の農商の家に生まれ、5歳で新見藩儒丸川松隠に学ぶ。 文政8(1825)年21歳のとき、篤学の名声が広まり、松山藩主板倉勝職に聞え認め続きを読む
明治5(1872)年、哲多郡則安村(新見市哲多町)に生まれる。明治14(1881)年、賀陽郡上足守村の杉本家に養子入する。松浦黙(漢学者)の塾で学び、儒学の素養を身につける。明治19(1886)年、続きを読む
鎌倉時代の武士。備中国上房郡有漢郷(高梁市有漢町)の地頭。通称は三郎という。秋庭氏は、もと相模の国(神奈川県)の武士であったが、重信は承久3(1221)年に起こった承久の乱の軍功があり、新補地頭とし続きを読む
幕末の老中・備中松山藩第7代藩主。文政6(1823)年、陸奥(福島県)白河城で松平越中守定永の8男として生まれる。勝静が20歳の天保13(1842)年6月、備中松山藩第6代藩主板倉勝職に嗣子が無いの続きを読む
明治14(1881)年、川上郡下原村(高梁市成羽町)で生まれた。幼少から画才をあらわし、画家を志して上京。明治35(1902)年、黒田清輝、藤島武二らが教鞭をとる東京美術学校西洋画科選科に入学する。続きを読む
社会福祉事業の先覚者。元治元(1864)年、高梁市新町で髪結床を営んでいる吉田家に生まれたが、南町で米屋を営む吉田家の養子となる。行商中に飲んだ谷川の水が原因で肺ジストマを患い、治療のため、中間町の続きを読む
明和元(1764)年、川上郡落合町福地(高梁市落合町福地)の神官、西林玄蕃忠盛の次男に生まれる。本名は要人、RR織衣亮盛堯RBおりいのすけもりたかRTと称し、国橋と号した。総社市久代の本田清成斉につ続きを読む