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太田 辰五郎おおた たつごろう

享和2(1802)年(諸説あり)、阿賀郡実村(新見市千屋実)に太田政蔵の長男として生まれる。太田家は、代々鉄山業を経営しており、当時、十指に余る鉄山を有し、近隣に並ぶ者なき有力者であった。天保2(1831)年、父の死により家督を相続すると、鉄山業に専心する一方、造林、開墾を行い、とくに産牛の奨励には極めて熱心に精魂を傾けた。
天保4(1833)、5(1834)年の飢饉に際しては、莫大な金穀を窮民救済のため上納した。江戸城西丸造営に当たっては小割鉄を献納した。また、天保8(1837)年、花見村で農民が強訴を企てた際には、説得して中止させる。これらの功績として子々孫々に至るまで苗字帯刀を許された。当時の辰五郎は、他国の地主や事業家のみならず、備中足守藩、松山藩、新見藩等に多額の融資をするほどの資産を有していた。産牛の改良増殖に尽くした功績は大きく、商用で大阪、江戸へ旅行するたびに、牛市を視察し産牛改良に努め、それまでは小型であった千屋牛の改良を図り、大赤蔓を造成した。また販売にも尽力し、天保5(1834)年、自分の邸宅を提供し、千屋牛馬市を開設した。こうした苦労により、天下の千屋牛を造成し、千屋市場の繁栄をもたらした。
没後の明治33(1900)年、第1回中国連合畜産共進会が開催された際には、農商務大臣から、その業績を讃えて追賞された。

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