備中松山藩主水谷氏は、元禄6(1693)年に無む嗣し改かい易えきとなるが、同族の勝時かつときが名跡を継ぎ、旗本はたもと寄合よりあい衆しゅうに列しえて、布賀に陣屋を開設しました。 以後、明治までの2世紀近くにわたって郡内采地ぐんないさいち(領地)の役所としての機能を果しました。敷地の広さは東西50間、南北30間の1,500坪(4,950㎡)であるが、そのうち約3,300㎡を指定しています。知行高は3,500石です。 跡地は明治以降小学校となり、現在はコミュニティ用地として活用されています。