山中鹿介(1545~1578)は、月山富田城(現:出雲市広瀬町)の尼子氏に仕えた武将です。尼子氏が三代義久の時、毛利元就に滅ぼされ、鹿介は尼子勝久を擁して再興の兵をあげました。天正6(1578)年、織田信長の支援で播州上月城を攻略しましたが、毛利、宇喜多の連合軍に敗れて勝久は自害、鹿介は捕えられ、妻子、家臣60余名とともに毛利の本陣に護送中、阿井の渡し)で討ち取られました。時に34歳でした。討死の場所には榎を植えて印としましたが、のちに洪水で流出しました。正徳3(1713)年、備中松山藩主石川氏の家臣前田時棟、足軽佐々木軍六が現在の供養塔を建立しました。
山中鹿介の首は鞆の浦(現:広島県福山市)に首塚として葬られており、胴体は落合町阿部地内に胴墓として祀られています。