町内に在住していた与兵衛は、孝子の聞こえが高く、天明8(1788)年4代領主水谷みずのや兵庫ひょうご勝政かつまさが幕府に上申して表彰され、「孝義録」に記載されました。 文化3(1806)年10月20日与兵衛没後、後世まで徳を讃えるため、村人が文化4年ごろ建立しました。撰書は、代官の熊本氏の一族 号冬川です。 碑の大きさは、高さ103㎝、横42㎝、下底42㎝、上底28㎝、奥行22.5㎝で、安山岩が用いられています。 今でも、命日にはこの地域の人々が子どもたちを集めて与兵衛祭りが行われています。 「孝義録」は老中松平定信が柴しば野の栗りつ山ざん等に命じて、諸国における孝順・忠悌の良民について編術されたもので、全50巻で寛政12(1800)年に編纂されました。