備中松山城のある臥牛山の麓に位置しています。江戸時代に備中松山藩の政庁であり、備中松山城主が日常起居していた御殿屋敷の遺構です。 屋敷の地割りは高さ7mを越えます。時代により、野の面づら積づみ、打うち込こみ接はぎ、切きり込こみ接はぎの石垣を築いて上下二段に造成されており、上段に城主の居館である御殿が設けられていました。御殿は小松山山頂の「山城」に対し、「お城」と呼ばれ、通常登城といえばこの御殿に出仕することでした。 御殿や付属建物は明治6(1873)年の廃城令により解体撤去されましたが、総延長800mを超える石垣及び御殿の中庭はよく旧状をとどめており、現在、その跡地の大部分が岡山県立高梁高等学校用地となっています。なお、山城は解体運搬費用が高くつくからということで放置されていたといわれています。