新本は、岡田藩の領地でしたが、村の人々が共同で使用していた入会山の木々の伐採や下草・採草を禁じたため、村人は薪や田畑の草肥、牛馬の飼料などを得ることができなくなりました。そのうえ享保元(1716)年には、藩有林の木を伐採・運搬する重労働を命じられ、その労働は度重なり農耕にもさしつかえるようになりました。困り果てた村人は、藩との対決を覚悟し、藩へ嘆願書を提出しましたが聞き入れられませんでした。
そのため、享保3(1718)年に村人4人を江戸に派遣して、藩主伊東長救に直訴した結果、願いが聞き届けられました。しかしながら、当時直訴は禁じられていたため、4人は新本の飯田屋川原で打ち首になりました。遺体は下げ渡され、4人のうち3人は西明寺に、1人は稲井田に手厚く葬られました。
毎年夏には、この4人の義民をしのび、義民祭が行われています。