総社跡は、市名の由来となった備中国の「総社」のことです。律令制下、各国に中央から派遣された国司は行財政や司法・軍事などをつかさどるほか、国内の神社を管理し祀ることも重要な職務の一つでした。
国司は、それぞれの神社を一宮から順に巡拝していましたが、平安時代後期ごろになると、国府の近くにすべての神社をまとめ
総社という文字が最初にみられるのは、「時範記」という文献で、康和元(1099)年2月15日条の
備中国の総社に関しては、平安・鎌倉時代の資料が残されていないため詳細は不明ですが、他の国の総社と同様に12世紀には存在していたものと考えられます。