宝暦8(1758)年、浅口郡西阿智村(倉敷市西阿知町)に生まれる。名は、茂延。通称一郎といい、松隠はその号。家系は代々新見藩に仕えていたが、父の代には仕籍を離れる。幼少時に母の訓陶を受け学問の才を現続きを読む
備中松山藩士。文化2(1805)年、阿賀郡西方村(高梁市中井町西方)の農商の家に生まれ、5歳で新見藩儒丸川松隠に学ぶ。 文政8(1825)年21歳のとき、篤学の名声が広まり、松山藩主板倉勝職に聞え認め続きを読む
備中松山藩士。文化2(1805)年、阿賀郡西方村(高梁市中井町西方)の農商の家に生まれ、5歳で新見藩儒丸川松隠に学ぶ。 文政8(1825)年21歳のとき、篤学の名声が広まり、松山藩主板倉勝職に聞え続きを読む
文政13(1830)年、浅口郡阿賀崎新田村(倉敷市玉島阿賀崎)に生まれる。隣村・長尾村の小野務に和歌を学んだ後、備中松山藩校教授・鎌田玄渓に入門。藩士に推挙され、昌平黌に入って古賀茶渓(儒官・漢学者・続きを読む
天保元(1830)年、窪屋郡中島村(倉敷市中島)に生まれる。14歳で山田方谷に学び、早くから文才が認められている。23歳のときに津藩(三重県津市)の儒学者・斎藤拙堂に詩文や文学を、漢学者・石川竹崖から続きを読む
文政5(1822)年、川上郡九名村(井原市美星町明治)の庄屋を務めた阪田家に生まれる。父について大和・大阪に移り、大阪では大塩平八郎に学んでいる。さらに朗盧は江戸に出て、昌谷精渓・古賀侗庵に学んだ。続きを読む
「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎、索我、宮の石橋」と歌われ、いまなお土地の人々から慕われているのが、江戸時代中期の儒学者西山拙斎である。享保20(1735)年、備中国鴨方村(浅口市鴨方町)に医者続きを読む