新見藩初代藩主の関長治及び4代藩主の政辰の墓所は西来寺せいらいじにあります。 このお寺は、元禄11(1698)年に長治から下賜された現在地に良高りょうこう和尚おしょうが堂塔を建立し、関家の菩提寺と続きを読む
赤羽根イナリ古墳は落合町阿部にあり、平成14(2002)年に宅地造成中に発見され、直径14mほどの円墳と確認されました。発掘調査によって、この墳丘の裾部を巡るように石列を検出しており、葺石と考えられ続きを読む
町内に在住していた与兵衛は、孝子の聞こえが高く、天明8(1788)年4代領主水谷みずのや兵庫ひょうご勝政かつまさが幕府に上申して表彰され、「孝義録」に記載されました。 文化3(1806)年10月2続きを読む
有漢町畦地の明地みょうちにある有漢荘の北側にある円墳です。古墳時代後期のもので、南西に開口する片袖式の横穴式石室をもちます。円墳の直径18m、高さ3mで、石室の残存長9.5m、玄室長6.6m、幅1.7続きを読む
初代水谷伊勢守勝隆みずのやいせのかみかつたかは、寛文4(1664)年5月3日68歳で没し、大龍寺殿鉄山全性大居士だいりゅうじでんてつざんぜんしょうだいこじの法名で定林寺じょうりんじ境内墓地に埋葬され続きを読む
山中鹿介(1545~1578)は、月山富田城がっさんとだじょう(現:出雲市広瀬町)の尼子氏に仕えた武将です。尼子氏が三代義久の時、毛利元就に滅ぼされ、鹿介は尼子勝久を擁して再興の兵をあげました。天正6続きを読む
江戸時代には、街道の整備に伴い距離を示す目印として、一里(約4Km)ごとに道の両側に塚を築き、エノキやマツなどを植えました。この一里塚も、山陽道の整備に伴って築かれたもので、かつては大松が一里塚の象続きを読む
古墳時代前期前半(4世紀前半頃)に築かれた前方後方墳です。高梁川を眼下に望む、眺望のよい丘陵尾根の頂上に築かれており、周囲にも多くの古墳が見つかっています。 平成23年度から実施された確認調査によ続きを読む
こうもり塚古墳に次いで、6世紀の後半に造られた備中地域最後の前方後円墳です。横穴式石室内には、井原市産出の貝殻石灰岩で造られた石棺せっかんが安置されており、中から20代後半から30歳にかかる壮年男性続きを読む
新本は、岡田藩の領地でしたが、村の人々が共同で使用していた入会山いりあいやまの木々の伐採や下草・採草を禁じたため、村人は薪や田畑の草肥、牛馬の飼料などを得ることができなくなりました。そのうえ享保元(続きを読む