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板倉 勝静いたくら かつきよ

 幕末の老中・備中松山藩第7代藩主。文政6(1823)年、陸奥(福島県)白河城で松平越中守定永の8男として生まれる。勝静が20歳の天保13(1842)年6月、備中松山藩第6代藩主板倉勝職に嗣子が無いので養子となり、嘉永2(1849)年4月、藩主板倉勝職が病で藩主を退いたため、勝静は備中松山5万石を襲封して、周防守そして10月伊賀守に改名。勝職は同年8月23日死去。嘉永3(1850)年、山田方谷に命じて藩政改革を始める。
 嘉永4(1851)年6月、奏者番となる。安政4(1857)年8月、寺社奉行を兼ねる。安政5(1858)年、安政の大獄が起き、大老井伊直弼に意見を述べたため、安政6(1859)年2月、奏者番並びに寺社奉行を罷免される。万延元(1860)年3月3日、桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺され、文久元(1861)年2月、勝静は再び奏者番兼寺社奉行に任命される。文久2(1862)年3月、老中に抜擢され、外国掛および勝手掛として外交と財政を所管した。勝静38歳のときであった。元治元(1864)年6月、老中を罷免される。同11月長州征伐の山陽道先鋒の命を受け、藩兵を率いて広島へ出兵する。翌年1月広島より凱旋。この年慶応と改元された。勝静は再び老中となり周防守を伊賀守に改称する。
 慶応2(1866)年7月、の将軍徳川家茂没。勝静は一橋慶喜の徳川宗家の相続および将軍就任に尽力し、12月慶喜は将軍となる。慶応3(1867)年10月、大政奉還の建白書を勝静は受けとり、大政奉還が行われた。慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが起き、1月6日、慶喜に従い海路江戸に帰り老中を辞任する。その後、日光・奥州・函館を流転し、明治2(1869)年5月自首し、安中藩(群馬県旧安中藩邸)へ永預の刑に処せられたが、明治5(1872)年1月、刑は解かれた。明治9(1876)年11月、特旨をもって従五位に叙せられる。明治10(1877)年7月、上野東照宮祠官を拝命する。

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