高梁川流域連盟

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敬業館の跡けいぎょうかんのあと

 笠岡の八幡平にあった敬業館は、江戸時代に開かれた庶民のための教諭所です。
 当時の笠岡代官・早川八郎左衛門正紀はやかわはちろうざえもんまさとしは、領民教育に熱心な人で、管内の有識者から建学懇願所が提出されたのを受けて、寛政9(1797)年、学館の建設に着手しました。学館は翌年春に完成し、陣屋稲荷宮じんやいなりぐうの宮司であった小寺清先こでらきよさきが教授に任命されました。
 その後、清先の子の廉之かどゆきが2代目教授となりました。さらに、廉之の子の完之かんしが3代目教授となったが学館の維持経営が困難となり、私塾となります。明治16(1883)年に学館は閉鎖されました。
 現在史跡地内には、近年復元した塾舎(生徒の寄宿舎)1棟と、石碑2基が残っています。「思徳之碑」は、早川代官の徳を慕って立てられたもので、文章は小寺清先、筆者は頼山陽らいさんようです。「楢園先生之碑しゅうえんせんせいのひ」は、初代教授小寺清先(楢園)の学徳をたたえたもので、文章・筆はともに頼杏坪らいきょうへいです。また、敬業館跡の西側に小寺家の墓地があります。

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