井戸平左衛門正明は、世に「いも代官」と呼ばれた名代官です。享保16(1731)年、60歳にして石見国大森の代官に任命され、翌17年、備中国笠岡代官を兼務します。時に西日本一帯はウンカの大発生によって未曾有の大飢饉となっていました。
平左衛門は事態が一刻を争うと判断して、幕府の命令を待たずに独断で陣屋の蔵を開き「米はらい」をしたといわれます。また、被害の大きな村々の年貢を減免しました。さらに、やせた土地でもとれる食物として甘藷を導入して、飢饉をしのぎました。
これらの優れた施策によって、井戸代官の支配地からは、ひとりの餓死者も出さなかったと伝えられます。享保18(1733)年5月、笠岡で病死し、各地に数百基の顕彰碑が立てられました。墓は笠岡の曹洞宗威徳寺にあります。墓前に立つ2基の石灯籠は、笠岡と石見国大森の村人が寄進したものです。