文政5(1822)年、川上郡九名村(井原市美星町明治)の庄屋を務めた阪田家に生まれる。父について大和・大阪に移り、大阪では大塩平八郎に学んでいる。さらに朗盧は江戸に出て、昌谷精渓・古賀侗庵に学んだ。続きを読む
明治5(1872)年、後月郡西江原村(井原市西江原町)に生まれる。福山の平櫛家へ養子に入ったが、すぐに大阪へ奉公に出る。その後、彫刻に興味を持ち、人形師中谷省古に弟子入りし、彫刻の手ほどきを受け、さら続きを読む
世に「いも代官」と呼ばれた名代官である。享保16(1731)年9月、60歳のとき、石見銀山を受け持つ石見国大森(現島根県大田市)の代官に任命された。翌17(1732)年から、備中国笠岡代官を兼務した続きを読む
14歳から89歳にいたる75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は英吉。当初は竹橋とも号した。 明治22(1889)年、小田郡笠岡村(笠岡市笠岡西本町)で、商家の四男として生ま続きを読む
明治37(1904)年、小田郡新山村(笠岡市山口)に生まれる。姫路師範学校を卒業して教師となるが、大正14(1925)年に、文学を志して上京。詩人、そして小説家として作家活動を開始する。昭和19(1続きを読む
寛延元(1748)年、笠岡村の陣屋稲荷(笠岡小学校裏山にある)の神職の子として生まれた。通称常陸之介。京都で卜部氏に神道を、和歌を澄月に学ぶ。家職を継いだが、のちに長男の清之に神職をゆずり、自ら「楢続きを読む
僧侶・画家にして社会事業家。南画を学び、優れた花卉図や山水画を多数残した。本名はRR明導RBめいどうRTだが、白印またはRR白導人RBはくどうじんRTとして知られる。 文久2(1862)年、笠岡の続きを読む
文久元(1861)年、笠岡村(笠岡市笠岡西本町)に生まれる。本名は文蔵。慶應義塾、興譲館(井原市西江原)に学び、明治15(1882)年に上京。矢野龍渓の主宰する郵便報知新聞社に入社し、文筆家、新聞記続きを読む
明治9(1876)年、浅口郡新庄村川南(里庄町新庄)で村山菊蔵の長男として生まれる。醇成小学校、生石高等小学校、岡山中学校を経て第一高等学校に進み、東京帝国大学政治学科を主席で卒業。恩賜の銀時計を受続きを読む
「日本の原子物理学の父」と呼ばれるの偉人。明治23(1890)年、浅口郡里庄村浜中(里庄町浜中)で仁科在正の四男として生まれる。新庄尋常小学校、生石高等小学校、岡山中学校、第六高等学校を経て東京帝国続きを読む