備中松山藩士。文化2(1805)年、阿賀郡西方村(高梁市中井町西方)の農商の家に生まれ、5歳で新見藩儒丸川松隠に学ぶ。 文政8(1825)年21歳のとき、篤学の名声が広まり、松山藩主板倉勝職に聞え続きを読む
人間国宝、高梁市名誉市民。明治27(1894)年、高梁市間之町で生まれる。幼少のころから父親について筝曲(生田流)を、姉からは琴の手ほどきを受け、筝曲、地唄、三弦の厳しい修業をした。大正6(1917続きを読む
応永27(1420)年、備中赤浜(総社市赤浜)に生まれる。このことは、重玄寺(井原市)の千畝周竹の語録『也足外集』から想定することができる。そして、幼少期に修業に入った宝福寺で涙でネズミを描いたとい続きを読む
高松城水攻地理の図には、天正10(1582)年、羽柴(豊臣)秀吉が高松城の水攻めを行ったときの様子が描かれている。 享保11(1726)年、下道郡新本村(総社市新本)に生まれる。江戸時代の地理学者続きを読む
天保12(1841)年、両替商、回船問屋、酒類の販売などを営む豪商・堀家の四男として、賀陽郡八田部村(総社市総社)に生まれる。名は、堀和平安郷やすさと。 明治の始めごろ、家業を継ぎ、その後大阪に問屋を続きを読む
明治7(1874)年、賀陽郡門田村(総社市門田)に生まれる。現在は、雪舟が修行した宝福寺(総社市井尻野)に満谷国四郎の顕彰碑が建てられている。従兄は、岡山洋画の先駆者と知られる堀和平である。幼い国四続きを読む
早島戸川家最後の領主。慶応元(1865)年3月に、病身の兄安道の名代として上京し、勤王の意を表し9月まで京にとどまり家督相続を命じられた。明治元(1868)年、家督を継ぎ、早島戸川家13代目領主となる続きを読む
備中国早島塩津村(早島町早島)の生まれで、諱を初め智種といった。天正ごろに石見銀山の経営にあたり、銀の鉱脈を掘り当て、釜屋間歩とよばれる鉱抗などを開発したために成功をおさめた。その功により徳川家康に続きを読む
明治28(1895)年、岡山市門田屋敷(両親の当時の居住地)生まれと推察される(本籍地は浅口郡乙島村=倉敷市玉島)。幼少期から絵を描くことが好きで、明治43(1910)年に15歳で大阪に出て洋画家・続きを読む
天保5(1834)年、都宇郡帯江新田村(倉敷市茶屋町)の織物屋・児島屋の家に生まれる。児島屋は札元として藩札の発行等にも関与していたが、それが仇となり、父の急死を機に店を閉じて一旦江戸に出て武家社会続きを読む