明治23(1890)年、小田郡矢掛村(小田郡矢掛町)に生まれる。生家は数々の大名や幕府の役人が泊まったとされる本陣職を代々務めていた石井家の分家である。矢掛中学から第六高等学校、東京帝国大学文科大学国文科に進学。大学在学中に西条八十等と同人雑誌『聖杯』を出した。翌年の大正2(1913)年に尾上柴舟の車前草社に加わり、さらに、大正3(1914)年に『水甕』創刊に参画してその編集に携わることとなる。大正5(1916)年、東大大学院を終えると、万朝報に入って美術記者となり活躍していたが、当時の帝室博物館長・森鷗外に認められて同館の嘱託に任じられた。その歌風は、師尾上柴舟の温和平明なリリシズムを継いで、澄んだ哀切さを漂わせている。
大正9(1920)年、第八高等学校教授となり名古屋に赴任、この地へ『水甕』を移して編集していたが、47歳で早逝した。生家の南にある矢掛嵐山公園には、直三郎の歌「やまいくへ ゆふや万 いくへ 鳴かぬ 東里 さびしきとりのおちている山」を刻んだ碑が建っている。歌集歌集『青樹』『徒然草新釈』がある。