早島戸川家最後の領主。慶応元(1865)年3月に、病身の兄安道の名代として上京し、勤王の意を表し9月まで京にとどまり家督相続を命じられた。明治元(1868)年、家督を継ぎ、早島戸川家13代目領主となるが、同2年6月の版籍奉還とともに領地は倉敷県の管轄となった。
明治7(1874)年12月6日、キリスト教に入信し、牧師として伝道に従事する。また、文学にも造詣が深く、明治26(1893年)年創刊の『文学界』に新体詩「桂川(情死を弔ふ歌)」「明智光秀」を発表した。さらに安宅は教育界にも多くの足跡を残し、日本女子大学の創立に加わりのち同大教授、或いは学習院大学教授も務めた。晩年は、紀州徳川家の南葵文庫(紀州候徳川頼倫により明治41年に設立された図書館)の主任を務めた。また、倉敷大原家が主催した「倉敷日曜講演」でも「教育並文学について」と題する講演を行っている。号は「残花」。