有終館ゆうしゅうかんは、藩主板倉いたくら勝澄かつずみが伊勢亀山から移封いほう後の延享えんきょう3(1746)年に開かれた学問所が発展したもので、寛政かんせい年中(1790年代)の勝政かつまさ時代に藩校として確立しました。 有終館は、天保てんぽう2(1831)年、城下町の本丁ほんちょうにあった建物が焼失し、子弟の通学に便利な中之町なかのちょうの現在地に移されましたが、天保10(1839)年の城下の大火で再度焼失し、学頭山田方谷やまだほうこくの強い要望により、5年間の学校経費を投入して再建されました。このクロマツは、その際に、山田方谷によって植えられたものと言われています。