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小野 竹喬おの ちっきょう

 14歳から89歳にいたる75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は英吉。当初は竹橋とも号した。
 明治22(1889)年、小田郡笠岡村(笠岡市笠岡西本町)で、商家の四男として生まれた。祖父は南画家の白神澹庵、長兄は小野竹桃である。兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳門下に入る。 大正5(1916)年、セザンヌなどの影響により洋画的手法を取り入れた「島二作」が文展で特選。大正7(1918)年には新しい日本画の創造を目指して、土田麦僊らと国画創作協会を設立する。大正10(1921)年から半年間渡欧して、西洋美術を研究。帰国後は、文人画への傾倒を深め、昭和3(1928)年の「冬日帖」により素朴で瑞々しい独自の風景画を完成させた。戦後は、大和絵の新解釈により明快で温和な作風を確立。
 昭和51(1976)年の「奥の細道句抄絵」により文化勲章を受章した。昭和54(1979)年、89歳で逝去し、京都市の上品蓮台寺に葬られた。昭和57(1982)年に、その功績をたたえ伝えるために、笠岡市立竹喬美術館が開館した。

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