石火矢町にある武家屋敷で、江戸時代中期から後期にかけて、120~150石取りで、近習役や番頭役を務めた武士の住宅です。江戸時代後期の建築で、平屋建、西向きの正面の屋根は流れ向拝、南北の破風は入母屋造掛瓦の箕甲葺き、三ツ花懸魚を取り付けており、寺院を思わせる屋根です。玄関には幅2間の式台を設け、玄関の間は数寄屋風に朱色とし、正面には1間半の棚を設けています。式台上部には袖切をした水引紅梁に若葉を施し、蟇股には梅鉢の家紋を彫刻しています。内部は本床造り、海老束で支えた違い棚に天袋、禅宗風の花頭窓、柱はぜいたくな面皮柱など、数寄屋造の面影を残しています。
旧埴原家は板倉勝政の生母の実家であるため、備中松山の城下町の武家屋敷としては、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りとなっています。